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このブログの説明

里親や養護施設についての全国紙の記事は それほど偏った内容のは 少ないですが、地方版にでる 養護施設の記事の中には 施設の理事の発言を そのまま載せているのもあります。記者が 入所している子どもにインタビューすることは許されないだろうし、子どもは 施設から逃げられないから 本当のことを言うとも 思えない。
そういう記事を カキコミしたいと思っています。地方版に里親や施設についての記事が載るのは 1年に一度くらいでしょうけど。
児童養護施設についての記事を書くなら 元職員と元入所していた人から取材しないと、まともな記事になるとは 思いにくい。しかし 地方の支局で そんな手間をかけることは できないし、そもそも そういう方々を どう探していいかも 分からない。理事の発言を丸写しにしても 編集者も読者も 施設について ほとんど知らないのだから 苦情は来ない。したがって 提灯持ちの記事は 続く。

「里親 ブログ」で検索すると、犬猫の飼い主募集ブログが大量に出ます。
犬猫の飼い主を里親と言う人も居るけれど 犬猫を里子とは言わないから ブログの名前に「里子」という単語を入れたら 人間の里親・里子について検索する場合に ひっかかりやすいかと思い、ブログの名前に里子をいれました。

元里子(成人した若い里子)を面接調査のために募集

2009年2月5日
ドイツのジーゲン大学と 「社団法人・里親・養子縁組親in NRW
(ニーダーライン・ヴェストファレン州)」は共同研究のためにケルン・デュセルドルフ
地域の若い元里子を求めている。
一時的でも 長期でも 里親のところに居たことのある人が対象で、
里子としての経験をインタビューさせてほしいと研究者は望んでいる。
(ジーゲンは Sieg川(ライン川の支流)の上流にある町)

この共同研究は里親と養子縁組親のために 相談と支援を
展開することを目標としている。
助成金は 2年間「Aktion Mensch(キャンペーン人間)」から
提供される。
このプロジェクトについて 報道機関、NRW州内の里親と養子縁組親
の自助グループ50団体などに説明会が開かれる。

養育放棄されたり、重いトラウマを負っていたり、魂の障碍を
持ったりしている子どもが 里親家庭に来る例が増えている。
したがって 今までの やり方で 子どもを支えるのは 
不十分になっている。
さらに 困り果てた里親の言うことを 聞いてくれる相手は 
あまり いない。
共同研究は この情報の隙間を埋めるものだ。
下記サイトから:
http://www.moses-online.de/nachrichten/2009_02_05/erwachsene-ehemalige-pflegekinder-interviews-gesucht

60年代までのドイツの児童養護施設・マールブルク大学の研究者にインタビュー

2009年2月17日発:
ドイツでは60年代まで 数十万人の子どもが施設で虐待され、
自尊心が傷つけられていた。この悲運を洗い直すためにベルリンで
検討会が開かれている。

オネショをした子どもは 濡れたシーツを頭に載せ、他の子の前を
歩かされた。孤独の中に生き、励ましや慰めの言葉をかけて
もらえないでいた 子どもの他に、重労働させられる少年や 
学校へほとんど行けない少年、常時 虐待され 性的虐待を
受ける子どもも居た。

「かつての養護施設の子どもの協会」の会員や 児童青少年
援助 作業グループの会員、施設を運営していたキリスト教会の
代表者など20人が 当時の施設について検討している。

Wolfram Schaeferは マールブルクのフィリップス大学で教え、戦後
まもない頃のマールブルクの児童施設養護を研究している。
以下は 彼へのインタビュー:

当時 青少年福祉局の職員も後見人も 機能していなかった。
施設での困った状態を暴露し、阻止する専門的監督は存在しなかった。
(ブログ管理人の蛇足:日本でも 児童相談所が施設の運営に
ついて 率先して指導するわけでなく、入所者があまりの酷さに
訴えた後で 児相が 出てきてくれるようです)
60年代までは 施設の子どもは「社会生物学的に劣等な人間」と
して記述されていた。
うまくいかないのは 入所している子どもに問題があるとされ、
教育学の機能不全だとは考えられていなかった。子どもは 
教育されるのでなく、「保管」されるものだった。
この考えは20世紀初めに始まり、ナチの時代に展開され、
45年の敗戦後も 優勢だった。

この状況を変えるのに学生運動も役に立った。変革の他の要因として、
ヘッセンにあったStaffelberg児童施設から30人の子どもがフランクフルトに
逃げた事件があった。この子たちを施設から解放しよう
という運動がおきた。
ベルリンの児童施設についてUlrike Meinhoffは放送で 
施設がどんな状況かを 公にした。

今はそんな状態は 児童施設には ない。とは言うものの 
障害をもつ子どもの施設に実習に行った大学生から そういう
施設の困った状態について 聞いている。

閉鎖された施設での養育は 暴力を生み出す構造を助成する。
絶対的な支配力をもつ職員は 他の組織に おける よりも 
多くの力を行使することができる。

被害者は しばしば大変なトラウマを受けている。劣等であり、
施設で虐待を受けても当然だと 叩き込まれている。公開の
討議と謝罪によって、このような濡れ衣ははらされなければならない。

当時の虐待に責任を負う組織は 歴史を公開し、検討すべきである。
文書館は公開されるべきであり、被害者とその代理人も文書を
利用できるように されるべきだ。施設での養育の歴史を研究することは 
専門学校・専門単科大学・総合大学において はっきりとした
位置を占めて当然だ。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/online/2009/08/heimkinder-runder-tisch

児童養護施設in戦後まもないドイツ

Peter Laxyは1953〜56年の間 Krefeld(クレーフェルト)の近くの
児童施設に居た。その15歳から18歳までの間の屈辱・暴力・餓えに
ついて50年も経って 初めて語った。

施設から逃げ出して そのたびに捕まった。2日間施設に居なかったら 
4日間 コンクリートのベッドのある格子付き独房に入れられる。

第2次大戦後、70年代の中ごろまでの間に 約80万人の子ども
(一時的に収容された子を含む)が施設にいた。今年2009年2月から
政治が このテーマに取り組んでいる。
ベルリンで2ヶ月に一度 当時の施設の子ども、国・州・施設の経営者
だったキリスト教会・青少年局の代表者が 円卓を囲んで 集まっている。
そこでは 謝罪が問題になり、被害者への賠償は可能かどうかが 
論じられている。
既に 当時の施設の子どもたちの協会(VEH)は250億ユーロの
賠償基金を設立することを要求している。

施設では 罰を受けない日には 給食があった。朝は代用コーヒー
(薄いコーヒー?)とパン2枚、昼食はジャガイモと野菜(腐っていて 
食べられないことが しばしばだった)、夕食はパン。
運の悪い日には 夕食はパンの耳だけ。
なので Peterは14歳の時に体重38キロだった。(今の彼の写真が
でています。太っています)

夜Peterの寝ているところに指導員が来て 部屋の隅に引っ張っていき、
革の上履きにタオルを巻きつけ、タオルを水につけて その上履きで腕が
疲れるまで 彼を殴った。Peterは頑健だったから 生き延びた。
一人の指導員は虐待だけでなく、男色も好んだが、Peterは 何とか
防衛し、性的虐待は逃れた。

施設に入った日は 手錠がかけられていた。母親が彼を好きで
なかったので、彼をおばの ところへ遣った。母親は警察に 彼を
行方不明の泥棒として届けた。切符を買う金を家から 持ち出した
のが 泥棒と言われることになった。警察は彼を施設に送った。

入所後 3週間して、労働が始まった。朝5時に起き、トラクターに乗り、
農場経営者のところへ行く。Peterは凍えるほど寒かった。服は古い
フランス軍の服から作られていた。薄いシャツに、向こうが透けて見える
上着だった。シャツの中や ゴム長靴の中に新聞紙を入れたが 
寒さは防げなかった。1日に12時間働くことも しばしばだった。日曜も
働き、どんな天候でも働いた。
ラインラントの土地金融組合連合は 彼に 手紙を書いてきて、労働の
報酬は小遣い程度を支払ってと言っているが、彼は煙草4本をもらっただけだ。
5月に上記の連合は 当時のすべての施設の子どもに 公式に謝罪し、
歴史の洗い直しをすると認めた。被害者に対して トラウマの
治療を申し出た。

Peterは今71歳になり、妻とケルンの近くで 幸せに暮らしている。
しかし夜 眠れない。施設の思い出は 彼にしがみついて、
彼を放さない。今も。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/online/2009/25/heimkinder-laxy?page=1

★ブログ管理人の蛇足:
太平洋戦争の戦中戦後に 里親のもとで育った女性から
「里親は偽善家であって どうにもならない人たちだ」と 私は
里親になる はるか以前に 聞いていました。
食うや食わずの時代に 里子に出されて 酷い目に
あわれたのだと思います。
戦後のドイツで 施設は これほど酷かったということが この記事で
分かりました。
ドイツで 当時 里親は多かったと思いますが、どういう様子だった
のでしょうか?

ブログを書き始めた頃、里親会会長から 里親登録を抹消すると
いうような脅しが あるかなと思ったりしました。しかし 里親登録は
会長との契約では なく、県との契約なので いくら最後進県の
一つでも そういう脅しは ないと今は思っています。
ずっとブログを書いていれば そのうち 身元はばれる。
段々と恐怖心は減ってきたので もう ばれても いいかと
言う気がします。

「家族の中の孤独、親殺し事件を考える」芹沢俊介

月刊 中央公論2009年7月号 p136〜143.
から抜粋。(記事は この雑誌を買って 読んでください)

子殺しという背景の伴わない親殺し事件はない。
ここでいう子殺しとは、存在論的子殺しと呼ぶべき事態である。
子どもの存在の基底である 安らぎを奪う行為、家族の中にいる
にもかかわらず、あるいは 家族があるにもかかわらず、その家族が
空洞化しているために 子どもを孤独へと追い込む行為である。
孤独への 追い詰められた子どもが、親殺しにおよぶ危険性を 
心とからだに 帯びてしまう。

八戸母子殺害事件:
2008年1月、青森県八戸市で18歳の少年が同居している母親と
弟妹を殺害した。少年は殺人・死体損壊・放火という三つの罪に
問われ、2009年3月、青森地裁によって無期懲役刑を言い渡された。
検察側の「冒頭陳述要旨」をもとに、少年にとって存在の基底と
して不可欠である やすらぎの場を奪われ、孤独への追いやられて
いる過程を 暴力団組員であった父親の3回の逮捕を軸にたどる。
頼みの綱の両親が少年におこなった「子殺し」の実態が 
くっきりと浮かび上がる。

1. 1997年6月
父親一度目の逮捕。少年8歳。母親は飲酒にふけり、複数の
男性と交際・外泊を繰り返す。3人の子どもの養育は困難となり、
きょうだい3人は児童養護施設に託された。翌98年 両親離婚。

2. 2001年3月
父親2度目の逮捕。少年12歳。出所した父親が母親を伴って
施設にきょうだい3人を迎えにくる。
逮捕は親子5人が父親の実家で暮らしはじめて 3月目の出来事だった。
2003年3月 母親は生活保護を受け、3人の子を連れて、
八戸市内のアパートに転居。しかし酒浸りで 男を自宅に入れる
という毎日は変らなかった。
少年は引きこもり始める。
2004年7月母親と口論し、自宅に灯油を撒き放火しよとしたため、
少年は精神病院に入院させられる。半年後の2005年1月 退院、
父親と同居、少年は父親の露天を手伝い始める。

3. 2005年10月
父親、少年の目の前で3度目の逮捕。少年16歳。
少年は、ようやく始まったと思った父親と二人だけの、それなりに 
やすらぎのある 暮らしを失い、再び母親と同居することになる。
これ以降、少年は 空想的な内容の小説を書くようになる。
子ども3人を道連れに自殺したいと記された父親の日記を目にする。
小説の内容が しだいに家族内殺人をするものに変る。

父親の三度の逮捕は 三度の子捨てを意味した。同時に母親を
崩壊に追い込み、父を頼りにしている少年や母親や弟妹に対する
三度の裏切りでもあった。父親は 子連れの心中を考えていた。

母親は 子どもを受け止める役割を放棄した。育児放棄に子捨て
(養護施設に預ける)と続き、そして離婚というかたちで 家庭を
崩壊へと導いた。

父親は「いない」、母親は「いるのに いない」。この家族の空洞化
状態が 少年の孤独の実質であったと思われる。

◎この事件の他に 秋葉原事件、2007年9月に京田辺市で起きた 
父親である警察官を殺した事件についても 論じられています。

★ブログ管理人の蛇足:
子殺しにあった この少年は 8歳で児童養護施設に入った。
施設では よそは 知らないけれど 当市にある施設のうちの 
二つでは 職員から子どもへの暴力は 管理上 必要と考えられて
いるようなので そういう施設に彼が 入ったとすると、施設の中にも 
やすらぎは無い。大規模な施設では 年長の子どもからの 暴力もある。
里親が理想的なサービスを提供しているとは 言わないが、
施設よりは ましである。
施設の理事のなかには 「里親の手に負えない子どもを 施設で
引き受けているのだから 管理上 暴力も ある程度 認められる」と 
里親に 言う人もいた。


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